Pちゃんブログ

元教員Pちゃんが、主にアドラー心理学的な観点で、生活や人生上の問題に役に立つ考え方を紹介します。

炎上・いじめに遭ったときに自分を守るには

小学生のyoutuberゆたぼんさんが炎上しているのを見て、とても恐ろしいと感じた。

彼は「宿題をしたくないから学校に行かない」ということを主張している。

それに対して大勢の大人が大量に執拗に批判をし続ける様は、戦時中に「戦争に行きたくない」と言った人への「この非国民め!」という攻撃のようだ。

 

彼の主張内容も、叩く人たちの主張内容にも、「正しい・正しくない」というものはない。それぞれの人がそう思うという意見の相違だ。

叩く人はゆたぼんさんの動画を見て何らかの不快感を感じたんだろうさ。

動画は彼の父親がやらせていて、彼自身の言葉ではないのでは、という疑惑もある。

でもね。

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どんな理由があっても、多数で一人を攻撃するのはいじめよ。

彼の主張内容に納得がいかないなら、「私はそう思わないな」で終わればいいじゃないか。もの申したくなっても、もうこれだけの人が反応してるんだから、そこに加わらなくてもいいじゃないか。

 

どうやら、この世の中、想像以上の「いじめ社会」だと言ってよさそうだ。

いじめっ子にもいじめをする訳がある。

しかし、いったんそれは横に置いて、「炎上・いじめに遭ったらどうすればいいか」ということを考えていきたい。

 

炎上・いじめに遭ったときに自分を守るには

①「いじめの幻」に気付く→自分を責めない

 例えば、毎日多数の人に執拗に「きもい、くさい」と言われ続けたとしよう。

 すると、「世の中の全ての人に自分きもい、くさいと思われている」→「自分はきもくてくさい迷惑な存在なんだ」と感じるようになる。

 実際にはそんなことはないのに、だ。

「いじめの幻」とでも呼ぼうか、このような錯覚に囚われてしまうのだ。

 今回のゆたぼんさんの炎上コメントを出しているのも、凄い数だが、世の中の全てから見ると、やはり一部の人たちなのだ。一部なのだが、そのような行為をする人は決まって執拗で、流れに加担していくので、数だけ見ると大多数に見える。実際、ぼくは彼の主張に反対はしない。(本当に彼自身の言葉かどうか、はわからないので、置いておいて)

 まずこの「いじめの幻」に気付くことが大切だ。

 「いじめの幻」に気付けたら、「自分はきもくてくさい存在なんだ」という感覚も幻となり、自分を責める心の仕組みが解除される。

 

取り合わない

 「いじめの幻」に気付き、自分を責めないようになれたら、「やめて」と毅然として言おう。

それでもだめなら、相手を責めたり反撃したりもしないことだ。

 いじめっ子にはいじめをする心理的な目的がある。いじめられる子が反応することはいじめっ子にとって格好のエサとなる。すると攻撃はさらに強まる。

 攻撃の動機を収める最良の方法は、「反応しない、取り合わない」ことだ。

 

③助けを求める 遮断する

 反応しないようにしても、いじめっ子はいじめられる子の反応を誘発してくることもよくあるだろう。そんな時は、助けを求めたり、積極的に遮断することだ。

 友だち、上司、助けてくれそうな人に「助けて」という。

 ネットなら、ブロックする。彼らの反応を見ない。

 学校や職場で起きているなら、休む、辞める、逃げる。

 

 

このように、いじめから自分を守る方法を持っておくことが大事だ。

いじめっ子は自分を守らない者を嗅ぎ付け、狙ってくる。

生きよう!

「いじりって必要?」への答え→○○を学ぼう!

いじりって必要?

という道徳の授業をNHKの「いじめをノックアウト」でやっていた。

 

答えは

「関係性による。」だ。

いじりをする側、される側がよい関係性なら関係をさらによくするし、その逆も然り。

それを「クラスのきまり」とかいって「いじりはいけません」なんてやるからおかしいことになる。

 

対話をしよう。

いやなら「やめて」と言う。

言えない人もいる、確かにその通りだが、言えるように努力しよう。絶対的に言えた方がいい。

いじりをする側も、相手がいやじゃないか常に気にしながらやろう。

このように、互いが「理解する努力」と「伝える努力」をすることが対話。 

 

ちなみに、対話ができている大人はほとんどいないと思う。

学校のやり方は子どもがどう思っているかより、どうしなければならないか、が優先だ。

子どもがどう思っていようと「こうしなさい」と押し付けたり、大人側の思いをいかにのみこんでもらおうかと「説得」したりする。

子どもが思っていることを主張すると「反抗的だ」と怒り出す。

「いじりはやめなさい」と一方的に「きまり」を作るのも同じ。対話的ではない。

ほとんどはこのような状況だろう。

 

大人が対話を学ばないまま道徳の授業をいくらやってもクラスの関係性はよくならない。

大人が対話を学び、子どもに手本として見せる、子どもがそれを学ぶ、というプロセスで対話を学ぶことがよい関係性づくりにつながるのだ。

 

タクシーで1万円札を出してはいけないのか?

テレビで

「タクシーで1万円札を出したら、運転手に『1000円札を用意しておいてください』と言われた」

ことが不満だといってsnsに投稿した人が話題にあがっていた。

 

この客、タクシーの運転手、どっちもどっち。


客も配慮がいる。
タクシーには強盗も多く、車内には多額の現金を用意できない。

運転手が崩そうにも、運転手を両替屋だと思っている客も多く、よく1万円札を出されるので、運転手は何度も崩す必要がある。だんだんと「もうやめてくれ」という気分になってくる。

日本の消費者は金を払えば何でもしていい、と思いすぎだ。それは、権力をもとに相手を思い通りにしようという暴君の姿勢だ。

お客さまは神様ではない。売り手と買い手は価値を交換し合っているだけで、人間としては対等だ。

 

しかし、運転手にもできることはある。

何度でも機械的に崩しに行けばいいだけだ。上記のような事情を「わかってほしい」と客に期待するからいらだちが生まれる。

そして、本当に用意することができなくて、お釣りがないときは、乗せる前に「1万円のお釣りがないんですが、いいですか?」と聞くことだ。

 

客のできることは、乗る前に「1万円札しかないけどいいですか?」と聞くことだ。すると、降車時に運転手から冒頭のことは言われない。

 

客も運転手も、自分の「こうあるべき」を相手に押し付けて期待しないこと、乗る前に「合意の形成」をすることで、気持ちよくやり取りができるようになる。

こういう小さいことの積み重ねが平和を築いていく。

脱出大好き

脱出は楽しい

脱出はワクワクだ

脱出はクリエイティブだ

脱出した先の、外の世界は輝いている

 

子どものころ、ぼくは無理矢理勉強させられていた。

公文式のプリントをいやがってやらないと、父からは殴られ、蹴られ、家を追い出されて鍵をかけられた。

ぼくが小学生になったときくらいから、母は公文の先生をはじめ、ぼくは一緒に教室に連れて行かれた。教室の空いている時間中、何時間も教室でプリントをやらされた。

 

プリントは早く終わらせられるときもあったが、

どうしてもいやで、手が全く動かないときもよくあった。

そのときは、オリの中に閉じ込められているような、手足が縄で縛られているような、窒息するような苦しさを感じた。

 

そんな苦しさに耐えきれなくなったぼくは、よく教室から脱出した。

 

教室は団地の集会所を借りてやっていた。

公文の部屋から出ると、給湯室があって、給湯器には触手のような管がついていた。

給湯器をいじくり回すと、その管から水が出てきた!

 

外に出ると、団地にくっついた広場や商店が軒を連ねていた。お金は持っていなかったが、お店に入って売っているものを観察した。

そこに並んでいる自動販売機にたまらなくワクワクした。

木みたいに地面からにょきにょき生えていて、中にジュースがいっぱい入っている。

大好きなコーンポタージュスープや、そのときは知らなかった「おしるこ」なるものまである。

素敵すぎる…

お金を入れなくてもこのボタンを押すだけでジュースがどれでも、いくらでも出てきたらどんなにいいだろう…

 

その先にもずんずん進んでいった。

歩道橋に続く螺旋階段がある。

それを「まきまきうんこの階段」と名付けた。

だんだん教室から離れて、迷って帰れないかもしれない、という不安が少しずつ沸き上がってくる。

でも、その不安は、ワクワクのスパイスになった。

螺旋階段を登って歩道橋を渡ると、別の団地の敷地に入る。

高台になっていて、きれいな景色を見下ろすことができた。

なんと、そこに遊具を発見した!

シーソーや、動物の姿の乗り物にのって遊んだ。

 

何度もそういう脱出を繰り返していると、地元の子と顔見知りになってきたり、頭の中に地図が描けるようになってくる。

そんな脱出した先の世界は、キラキラと輝いていた。

 

しかし、楽しい冒険が終わり、家に帰る車の中は地獄のようだった。

プリントをせず脱出するぼくに対して、母は、帰るまでの道中ずっと、くどくどくどくど説教をし続けた。

そんな中、一度、母は異常な行動をとったことがある。家に帰る道から外れているのだ。

おかしいな、と思ったぼくは「どこ行くの?」と聞いた。しかし、母は返事をしない。だんだん恐ろしくなってきた。気がついたら、どこともわからない道を凄まじいスピードで走っていた。スピードメーターを見ると、「120km」を指していた。死の恐怖で体が硬直した。

母は精神を病んでいたのだと思う。

 

ぼくの脱出好きは、そのときから今までずっと続いている。旅は日常からの脱出だし、仕事も同じ環境や内容を続けることはせず脱出する。

ぼくにとっての脱出は、病みから逃れて精神を浄化すること、オリから逃れて出会いや発見の喜びを得ることなのだ。

「和、協調性、我慢」より対話を

職場なんかでは理不尽なこと、納得がいかないこと、ってありますよね?

私はそういうときに、言いたいことを我慢しません。必ず相手に言います。

丁寧な言葉で、冷静に、はっきりと言います。

 

よく

「『和』『協調性』を持て」

「みんなと合わせて」

と言う人がいます。

私はこの言葉が大嫌いです。

 

本当に周りのみんなのことが好きで、誰とでも仲良く、明るく愛想が良い人って確かにいます。

しかし、職場なんかには

  • 権力を利用したハラスメントをする人
  • 思い通りにならなかったら怒って当たり散らす人

のように、支配的で、理不尽な思いを強いてくる人が多かれ少なかれいます。

 

上記の言葉は、

「そういう理不尽なことがあっても、我慢してニコニコしていろ」という意味が含まれています。

だから、私は上記の言葉が嫌いなのです。

 

私は、このようなときに、我慢ではなく、キレるのでもなく、対話が大切だと思っています。

 

この言葉を言ってくる人は、対話を知らない人、支配的な人です。

自分も支配され、我慢しているから、「我慢しないヤツはずるい!」と思って言ってくるのかもしれません。

 

構成員に「和」「協調性」を持ってもらうことは、集団のトップの人にとって都合がいいです。

集団の構成員がトラブルを起こすと、面倒で厄介です。

だから、小学校の教師には未だに「みんななかよし」なんてクラス目標を掲げている人がいます。

大抵その「みんななかよし」の文字は、黒板の上の飾りにしかなっていませんが。

 

対話(ダイアローグ)というのは、互いの思いの違いを話し、聞き合う、理解し合うことです。

この1年いくつかの職場に行きましたが、対話のできる職場、対話のできる人に会ったことがありません。

 

必要に駆られて対話をしようとしても、怒り出す人ばかりです。

その人たちの神経回路には対話の逆、モノローグしかないのでしょう。

一方的に言ったことに対して、私の反応が「はい、わかりました」以外だとご不満なようなのです。

どんなに丁寧に言っても「目下の若造くせに生意気な!」と感じるのでしょう。

 

対話のできる人と建設的に仕事をしていきたいです。

対話についてはまた後ほど書きたいと思います。

 

まずは自分のために、楽しさばかり追い求めよう

ブログは書きたいことや、その時思っていることを書きたいように書こう。

 

ブログは人のためになることを、わかりやすく書くことが必要、なんて思っていたら、書くことが気が重い作業に感じてきて、5か月近くも更新できなかった。

あれ書こう、これ書こうということは色々でてくるのに、そのメモだけして、実際書くのは後回し、書きたい気持ちが薄れていって結局書かずじまい。

 

どうしてこうなったか?

楽しさを大切にしていなかったからだ。

 

まず楽しくやる。

そうして、自分の中にたまった楽しさのエネルギーを人に分け与えよう。

 

いきなり成果を求めちゃダメだ。

絵でも作文でもピアノでも教科学習でも、はじめからテクニックばかり学んで、楽しさを置き去りにしてしまう。

楽しさのないところにテクニックは活きてこない。

楽しさがないと試行錯誤、トライアンドエラーをし続けて成長することができない。

 

恋愛もそうなのだろう。

マニュアルやテクニックを書いた本をたくさん読んできた。恋愛心理学講座なんてのも受講していたことがある。

でも、そんなんじゃほとんど恋愛のレベルは上がらなかった。

楽しく実践してトライアンドエラーをしていないからだ。

 

ダイエットも、痩せる行動が楽しく、気持ちよくないとダメだ。

辛いのを我慢して我慢して目標体重を達成しても、達成して終わりだったら、また太り始める。

 

楽しさを置き去りにして成果ばかり求める癖がついてしまうのは、楽しさを置き去りにして成果ばかり求める教育の影響が大きいだろう。

学校も習い事も本もそういうやり方をしていることが多い。

学習者も、はじめから自分に対して高すぎるハードルを課すから楽しくなくなるし、試行錯誤し続けることができなくなる。

 

何事もはじめのうちは特に、自分のために、楽しさばかり追い求めて実践し続けよう。

なぜ、テストの点数や学歴にこだわり続けるのか?①

町中は塾だらけ。

なんで時代がここまで変わってきているのに、大人たちはテストの点数やよい学歴にこだわりつづけるんだろう?

 

①経験していないから

「よい学歴があれば幸せになれるなんて幻想だ」

こう言われることは多いのに、行動はそれに基づいていない。

口ではそう言っていても、心の底ではそう思っていないんだろう。

 

難関大学に合格するために

好きなことを我慢し、

「勉強勉強」に限りある若い時間を費やして、

プレッシャーや苦痛をまぎらわすために自分を洗脳する。

ようやく合格できたとしても、その先は天国パラダイスではなかった…

 

このようなことを経験してはじめて、

点数や学歴ばかり追い求めることのデメリットを実感できるのかもしれない。

 

いい大学に合格したことのない人ほどいい大学に憧れを持ち、

自分の人生のうまくいかなさをいい大学に行っていないことのせいにする。

そして、自分の子どもにその夢を託す。

だから何としてでも自分の子どもには「勉強」をさせていい大学に行かせようとする。

暴力、洗脳、虐待という手を使ってでも。

 

このパターンは多い気がする。

ぼくとぼくの親もこのパターンだった。

 

「テストの点数やよい大学にこだわっても幸せにはなれませんよ」

「好きなことを我慢して将来のために今を犠牲にし続けても、将来はどうなるかわかりませんよ?明日死ぬかもしれませんよ?そうなったら後悔するでしょう?」

「勉強じゃなく学びを大切にしましょう」

 

ぼくがこう言い続けても全く伝わらない。

なぜなら人は経験からしか学べないからだ。

ぼくの言っていることをわかってもらうには、

一度勉強して勉強していい大学に合格してみるという経験をするしかないのかもしれない。

 

テスト、学歴にこだわるわけ②

「それ以外の生き方を知らない」というのがあるだろう。(続く)