Pちゃんブログ

元教員Pちゃんが、主にアドラー心理学的な観点で、生活や人生上の問題に役に立つ考え方を紹介します。

派遣を3か月でクビになった話③  これって、不当解雇?

〈この3か月の間に経験したこと③〉

不可能な要求をしてくる係長と話にならないので、課長と話をすることに。

課長とは話が通じ、「係長と3人で話し合おう」と言われたはずが、

突然、派遣会社の人がやって来て、クビを言い渡されました。

 

その時は「私という商品を買わないというだけだ、仕方ない」と思い、すぐにあきらめたのですが、少し経って、こんな風に思えてきました。

「従業員を雇うことと、消費者がものを購入するのを同じに考えていいのか?何かおかしい。どう考えてもこちらに落ち度はないのにクビって・・・不当解雇というやつなのでは??」

そこで、ネットで情報を集めました。すると、

 

「解雇は簡単にはできない。

 雇い主は、従業員に問題がある場合、改善するよう指導しなければならない。」

 

ということがわかりました。

今回のクビについて、指導どころか普段から指示も何もなされていません。

その逆で、すべて私の方から聞き続けて、補っていたのです。

これは明確に不当解雇です。

 

私は弁護士に相談しました。すると返ってきた答えはこのようなものでした。

「本来なら、そんなわけのわからない理由で解雇はできない。しかし、派遣はちがう。何度か更新されて長期間働いていたら期待権というのが発生して戦えるが、1回目の更新だと難しい。」

派遣の期間の更新をしないことを雇い止めといい、雇い止めと解雇は違うそうです。

不当解雇と同じ行為が、派遣に対しては可能になるということなのでしょうか・・・?

 

納得いかなかったので、さらに調べました。すると、

「派遣元(派遣会社)は更新をする、しない基準を明示しなければならない」

ということがわかりました。

 

ここにきて、私は「更新」というものについてあまりわかっていないことに気付きました。

就業する前、派遣会社の人と契約期間、更新についてやり取りをしたのは

 

派「期間は3か月にしますか?6か月にしますか?(^-^)ニコニコ」

P「ん?何が違うんですか?」

派「うーん、担当が就業先に行く回数の違いですね(^-^)ニコニコ」

P「じゃあ3か月で・・・」

 

これだけでした。

更新をする、しないの基準の明示なんてされていません。

「就業先は長く働いてもらうことをお望みだ」と言っていたので、私は「形式上、期間を決めなければならないんだな」と、軽ーく考えていました。

今考えたら、とても重要なことなのに、はぐらかされているのです。

 

私は腹が立って仕方ありませんでした。

何とかしてこの不当なことをする連中にパンチを浴びせてやらねば。

しかし、弁護士では難しそうなので、労働問題について電話相談できるところを見つけ、相談をしました。すると、次のようなことを言われました。

 

「派遣元に『理由明示書』を発行してもらって、労働基準監督署に『あっせん』をしたい、と申し出て下さい。派遣元が理由明示書の発行を拒否したら、そのことも労働基準監督署に申し出て下さい。」

 

あっせん、というシステムがあるそうです。

告訴までいかないが、和解をするために労働基準監督署が間に入ってもらえ、損害賠償もしてもらえる可能性があるそうです。

 

私は、派遣会社に理由明示書を出してもらうことにしました。

 

続く

派遣を3か月でクビになった話② 突然のクビ宣告

〈この3か月の間に経験したこと②〉

「派遣とは、就業先の指揮・命令を受けて仕事をする。言わばお手伝いである。」

この大前提は派遣元(派遣会社)とも確認済みでした。

しかし、これが係長とは通じませんでした。

彼が求めることは、指揮・命令ではなく、係長の欲していることをテレパシーで読み取り、何も伝えられなくても、その時その時の思い通りに動くことであり、私が思い通りにならなかったら怒り、当たり散らしました。

しかし、私はその期待に応えることは不可能なことでした。

 

このままでは、この組織は何のために派遣を呼んでいるのか、派遣について、組織としてどのように認識しているのか、私はどう行動したらいいか、分かりません。

係長では話にならないので、このことについて、翌日、課長と話をすることにしました。

課長とはすぐに話が通じました。

上記の大前提について、派遣会社も、課長も、私も合意しているということがわかりました。

課長は、

「係長に話を聞いてみるわ。そして、係長と3人で話をした方がいいかな。」

とおっしゃいました。

私は「よかった」と思いました。

その後、課長、課長補佐、係長の3人が結構長い時間、個室で話をしていました。

その日は木曜日でした。

 

私は私を含めての話し合いはいつなのか、と待ちました。

しかし、次の日も、土日を挟んで、月曜日も、私は呼ばれませんでした。

その月曜日、帰宅後派遣会社の人からメールが来ていることに気付きました。

メールにはこう書かれていました。

「課長から呼ばれましたので、明日そちらにお伺いします。」

 

火曜日、派遣会社の人がやって来て、課長、課長補佐、係長と個室で話をしていました。これまた長い時間でした。

部屋の外からでも、係長のわめくような声が聞こえました。

4人での話し合いが終わり、私は個室に呼ばれ、派遣会社の人と2人になりました。

そして、こう言われました。

 

「先ほど、『Pちゃんの6月以降の更新をしない(=6月いっぱいでクビ)』と言われました。『コミュニケーションが取れない』ということです。・・・ごめんなさい。力及ばず・・・」

私の認識では、コミュニケーションが取れないのは断然テレパシーを求める係長の方で、だから、私がリードして、コミュニケーションを取ろうとしていたはずです。テレパシーではなく。

 

その後、課長に呼ばれ、課長補佐と私の3人で話をしました。

課長は「申し訳ない・・・」とおっしゃいました。

派遣会社の人も、課長も、課長補佐も、悪意のある態度だとは感じなかったので、

「承知しました。私のことを買わないというだけのことなので、仕方ないです・・・」

と、それ以上抵抗、追求する気になりませんでした。

この時は。

 

続く

派遣を3か月でクビになった話① 突然キレだす係長

3月ぶりの記事となります。

この3か月の間、僕は派遣の仕事をしておりました。

始め、長期でお願いしたいというお話でしたが、僕はそこで大変理不尽な扱いを受け、3か月でクビになりました。

 

今回の体験を通して知ることができた、世の中の仕組みのうちの一つ「派遣の世界」を大まかにお伝えしたいと思います。(それでも長くなるかも…)

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〈この3か月の間に経験したこと①〉

 

3月末、私は大手の派遣会社に登録し、4月始めから、とある市の官公庁に就業しました。登録時、仕事内容は全く知らされず、全てOJTだと言われました。

私は担当業務を5つ持ち、そのうち2つは引き継ぎがありましたが、大量の内容を一気にまくしたてられ、僕は必死にメモを取り続けました。

教育システムは全く整っておらず、引継ぎ以外は指示もなく放置、昼食時に誰一人会話をしないなど、変だなと思うところはいくつかありましたが、それでも、エラソーな人もおらず、仕事も面白そうだな、いいところに来たな、と思いました。

私は自分から進んで一生懸命仕事を覚え、不明なところは必ず質問して確実に対応、遂行していきました。それがこの組織への貢献だと思っていたのです。

 

しかし、ある日、いつものように質問すると、係長が突然キレ始めました。その時を境に、係長は僕に当たり散らすようになってきました。しかも、指示内容が矛盾していたり、不可能なことを要求したりします。

僕は係長が求めていることがわからなかったので、対話をして考えを知る必要があると思いました。しかし、経験上、この日本には対話のできない人、対話=ケンカとなる場合が多いので派遣会社の人に相談しました。すると、対話を持ちかけてもいいと許可をもらえました。

その一週間後、また係長がお怒りだったので、僕は対話を持ちかけました。係長の思っていることを要約するとこうでした。

係「いちいち質問せずに、自分で考えて、私(係長)の求めていることをわかって行動してほしい」

しかし、決まったマニュアルもなく、係長は機嫌によって、その時によって指示内容も違い、矛盾もしています。私はこう伝えました。

P「私は自分で考えて行動できます。むしろその方が得意です。でも、その場合は係長の思っている通りにはできません。いちいち質問していたのは、それがこの組織への貢献だと思っていたからです。」

すると、係長は

係「なぜですか?」

ときたので、私はこう答えました。

P「私にはテレパシーがないからです。思っておられることは言葉にしていただかないとわかりません。」

係長は「・・・・・・」と黙りました。

P「では、私が自分で考えて行動する、でいいですね?」

と確認すると、

係「考えさせてください。」

ということでした。

しかし、その後もお客さんは来続けるし、事務処理は判断に迫られるので、待つことはできません。そのことを伝えると、

係「わかることは自分で考えて行動して、不明なことは質問してください」

と言われました。

P「え・・?( ゚д゚)ポカーン ということは、今まで通りでいいということですね?」

係「はい。」

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このやり取りの中でも、係長の指示は変化したのがわかると思います。

係長と対話はやはり無理でした。

しかし、矛盾した指示、不可能な要求に対しては、どう行動したらいいのかわからないので、翌日課長にこの話を持ち掛けます。

 

続く

表面ばかりで判断しないで③-数字の功罪、多数決発想ー

〇数は便利。でも・・・

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あるミュージシャンがいました。

あるコンサートの日、会場を見ると、客の入りがガラガラでした。

彼はそれに腹を立て、コンサートをせずに帰ってしまったそうです。

これって、残念なことです。

例えば、100人入りの会場に10人しか入っていなかったとします。

ミュージシャンの目には

「90も空席がある!!(;´Д`)」

と映るでしょう。

しかし、その10人のお客さんは、そのミュージシャンの音楽が聴きたくて、時間とお金を使って来てくれているのです。

90の空席よりも、10のお客さんの気持ちのありがたさを感じられればよかったのに、その10人のお客さんは、存在を認識さえしてもらえませんでした。

この10人の気持ちという価値を見逃すのは残念です。

もったいないです。

 

価値は90と10という数の大小では簡単に比較できないのです。

 

〇数字で人を判断することの功罪

数字は便利です。

「今日はあったかいよ」「いや、寒いよ」

と言うより、

「今日は気温が15℃だよ」

と数字で表す方が客観性が生まれます。

 

物の価値も人によって違います。

「この品物はいいものだよ」「いや、そんないいものじゃないよ」

というやり取りをいちいちしていては大変です。

「この品物は1000円だよ」

と、価値を数字で表す方が、曖昧な価値というものをはっきり認識できるようになります。

曖昧なものがはっきりすると安心します。

 

ところが、社会は人も数字で判断しようとします。

頭の良さ

「あの人は頭いいよ」

と言うより、
「あの人はテストで90点取れるよ。偏差値70の学校卒だよ。IQ130だよ」

と言う方が頭の良さという曖昧なものをはっきり認識でき・・・・たような気になります。

 

しかし、頭の良さにも色々な種類があります。

判断力、知識、記憶力、洞察力、論理力、表現力、理解力・・・・

先ほどの数字は、ある程度の頭の良さは反映しているのかもしれませんが、

本質はその数字を測るペーパーテストへの対応力に過ぎません。
これらの数値が本当に頭の良さを表しているのかは疑問です。

なのに、これらの数字で人を判断する人の多いこと!

だから、みんな、これらの数字を稼ぐために躍起になることが生きる力をつける教育だ、という認識になります。

 

〇「数が多い=正しい」多数決発想の誤り

意見や考えの価値も数字で判断されます。

民主主義の基本、多数決というものです。

 

その意見に賛成する、「いいね!」と思う人の人数だけで価値を判断します。

「人数が多い」のが「良い」わけではない、というのは、前の記事のナチスヒトラーの例で書いた通りです。

 

数が多い、多数派というだけで力を持つのが民主主義です。

みんな独裁は悪くて民主主義は良いということに疑問を持ちません。

しかし、多数派が判断を間違うとナチスヒトラーを生み出すのです。

民主主義は、独裁における一人の権力者の権力が多数派の人々に移っただけなのです。

 

このように、「多数決は正しいにちがいない」という多数決発想は、表面上だけで判断する、誤った認識のもとです。

前の記事のFacebookの記事の価値を「いいね!」の数で判断するのも多数決発想です。

 

人を数字で判断し、多数決発想でいれば

わからないことをわかったような感覚を抱き、安心感があります。

しかし、偏差値、いいねの数、多数決・・・
数字は一つの測定法による一つの側面、つまり表面上のものでしかありません。

錯覚である可能性が大いにあるということです。

本当のことがわかるには「数字で本質はわからない」ことに気付き、

その他の側面を知っていこうとするしかないのです。

表面ばかりで判断しないで②-「いいね!」の中身ー

Facebookの「いいね!」の数も表面上のことです。
本当に大事なのは、いいね!の中身です。

 

僕は偉そうかもしれませんけど、心は結構弱いんです。
(知恵とトレーニングで強くなってきましたが、20歳ぐらいのときはスライムのような弱さでした。)

僕の場合、記事によって「いいね!」の数に大きく差があります。

前はいっぱいついたのに、今回は全くつかない・・・そんなとき、良くないことを書いてしまったのではないか、と感じてしまっていたのです。

それが気になってしまって、Facebookが嫌になっていた時期があります。

 

〇どちらがいい記事?

記事A            記事B

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例えば、上のように「いいね!」が1の記事Aと、103の記事Bがあります。

記事Aは良くなくて、記事Bは良い

そんな風に感じてしまうのは僕だけじゃないでしょう。

でも、果たして本当にそうなんでしょうか?

 

〇「いいね!」の中身

どうも、見ていると、

「こんないいことありました~\(^o^)/ キラキラ~」という記事、ライトな記事、ポジティブな記事は「いいね!」が付きやすく、

本音、考えを述べた記事、読むのに手間がいる記事、問題に向き合った記事は「いいね!」が付きにくいように思います。

 

みなさん、どのような動機で「いいね!」をクリックするのでしょうか?

上記の現象を考えてみると、

どうも多くの人はその名の通り、しっかり読み込まないでも「なんとなくいい感じ」がするときに軽くポチッと押すのだと思います。

 

ということは、同じ「いいね!」でも、その内容は違うということが言えます。

 

だとしたら、

①いいね!が1つ2つでも、「ものすごくよかった、役に立った」という一人がいる記事
②「なんとなくいい感じだねー」というぐらいの人や社交辞令的な「いいね!」がたくさんある記事

 

この2つなら、僕は①のような記事がいい記事だと思いますし、そのような記事を書いていきたいです。


でも、①か②かを見分けることは難しいです。
だから、数の大小という表面上の価値に振り回されてしまいます。

 

〇「わからないこと」が「わかる」メタ認知

ミクシィというSNSをやっていました。
ミクシィには足跡という機能がありました。

ミクシィには「いいね!」がなく、コメントしかありませんでした。

コメントするには「いいね!」するよりエネルギーを使って考える必要があります。

だから、「足跡はあるが、コメントがない」という人がたくさんいたのです。

僕は、この「足跡はあるが、コメントがない」人が何を考えているのかわからなくて、だんだん怖く、気持ち悪くなってきて、ミクシィを辞めてしまいました。

わからなくて当然なのに。

 

こう考えると、ネット上の情報って結構表面上のものが多いです。

でも、ネットでは「もともと表面上のことしかわからない」ということを「わかっている」と、怖さ、気持ち悪さも軽減します。

 

「勉強」がわからないという子の本質は「何がわからないかわからない」という状態です。

「何がわからないかわかる(メタ認知と言うそうです)」と、問題の8割9割は解決だと言われます。

表面ばかりで判断しないためには、このメタ認知力がカギの一つになりそうです。